テレビが壊れた

久しぶりに日記をつける。
まずトラブルに巻き込まれ、我が家のテレビがたったの2週間で壊れました。液晶が壊れました。
そんで足を負傷して今ギブスつけてます。


なんでこんなことになったかっていうと、あんまり詳しくは言いたくないんですけど
人の相談を受けていたら話のもつれで喧嘩になり、テレビが破壊され、怒りに任せてテーブルを蹴ったらこうなった。ということです。
相談といっても恋愛相談とかそんなかわいいもんじゃないです。
そもそも相談だったのかも疑問なのですが、他人の家の事情についてです。
世の中には色んな生い立ちの人間がいて、円満に育ってきた何不自由のない人もいれば
理不尽極まりない育ち方を強制されて、今も尚それに苦しみ続けてる人も居ます。今回は後者のほうです。


そこで受けるどこにぶつけたらいいかわからない怒りや悲しみの的として
うちのテレビと僕の手足が犠牲になったわけですけども。
大人と一口にいっても、大変素晴らしい大人ばかりを子供の頃は魅せつけられます。
一方で、クズみたいな大人はシートで覆われて見ちゃいけませんと伏せられてきます。
子供の間でも立派な子、ゴミクズみたいなやつはどっちも少なからず居ます。
大人になったら皆が皆素晴らしく育つ、そんなバカな話があるわけはありません。クズはクズのままです。
もともとクズではなかったのに、クズと関わったことで人生を奈落の底に叩き落とされる人間も居ます。
クズの何がクズかといえば、悪いことをしても悪気がないということです。
人間生きていれば多少なりとも他人の人生に干渉します。


円満に育ってきた人間と、そうでない人間はきっとわかりあえません。
僕自身がどうだったかというと下を見れば見るほど自分はマシで、真ん中くらいにぶら下がって適当なことしか言えない。と感じます。
ごくごく普通に育ってきた人を見れば(上を見れば)、やっぱり自分は円満ではなかったかも。とも感じます。
家の事情(職業・貧富の差・宗教・田舎で言えばよそ者 etc)で他人から避けられる痛みや悲しみは分かりたくてもわかったふりしかできません。
わかろうと思っても限界があります。それ以上踏み込めばただの知ったかぶりになって失礼にあたるし。
子供というのは直にこの負のエネルギーを受けます。そしてしわが寄ります。
その寄ったしわをどこに当てるかというと、自分の中で押し殺すか、他者にぶちまける以外自分を正常に保つ術がありません。
他人に迷惑を掛けたくなければ自分のなかで押し殺すほかないし、常々そうしていても
水滴で溜めに溜めてきたコップからはいつか水が溢れ出します。それを責められるかという責められません。


結局パスしつづけるマイナスエネルギーを誰かが貰い手にならない限りは終わらないのです。
友人に「買い手のない怒りの買取役になった」と言われましたが、僕が泣く泣く買ってしまったこの怒り悲しみを
また他人にぶつけたら同じことの繰り返しです。それでもパスをしてきた人同様、こっちもこっちでいつか水が溢れます。
そうなったらどうしたらいいか、自分にできることであったら音楽に昇華するしかありません。
本来音楽というのは楽しくあるべきだと思ってます。ですけど、音楽にはこういうマイナスの力をプラスに還ることだってできると思ってます。


出来る人間がそれを担えばいいだけの話であって、自分自身で音楽なり絵画なり写真なりの
アウトプットから吐き出すことさえ出来ればこの遣り場のない感情というのはなんとかできるんじゃないか、とも感じてます。
悲しみのルーツをたどれば必ずその根源が存在します。その根源に遣り場のないゴミみたいな感情を返せばいいだけです。
それも自分なりのやり方で。別に批判や毒を撒き散らすだけが方法ではないです。


それでも他人から譲り受けた、買い手のなかった怒りはそもそも自分のものではありません。
自分のところにやってきたら、それは別の感情になってます。ただそれを返すだけでは気は収まりません。
ですけど自分の悲しみでないものを、自分のもののように言うことには抵抗を感じます。
そこで葛藤が起きて、また遣り場のない感情が生まれ続けます。でもそれを吐出さない限りは心の具合は治りません。
誰かの代弁をする、ということの重さを感じます。


なんだか長くなりましたが、別に足が痛いとかテレビの修理代が買った代金とほぼ同じことに怒ってるわけじゃないです。
何の罪もない人間にしわを寄せながらのうのうと生きてる人が許せないって思うだけです。
他人の人生を自分の人生の一部だと思ってる、そういう感情にヘドが出るということです。
自分のケツは自分でふけという言葉がありますが、それが出来てない大人というのが結構いることに
失望しているのと、ああやっぱりかと妙に納得してしまうのが嫌だなあって感じてるだけです。


この空の下で理不尽をなくそうというのも無理がありますけど、それを緩和させたり逃げ出すことはできるんじゃないか。
逃げるって嫌そうなことだと想いますけど、別に悪いことじゃないと思います。
逃がす、こっちのほうが響きがいいかもしれません。怒り悲しみを逃がすための音楽をやりたい。
もちろん楽しい音楽が本当は一番やりたいことですけど。


自分のための通気口だったものを、どっかの誰かも使ってくれれば
それはそれで幸せなものだと思えるんです。作った甲斐があったというか。